まずマルディグラ。トレメブラスバンドもさすがにもうZULU パレードはやらなくなった。New Birthがやっていた様子。そんなわけで、娘の空手友達W君の家によばれて皆で出かけた。ニューオリンズの隣町、メタリーのパレードが通る大通りのすぐ裏に住んでいるのだ。
親戚やなんかが集まって食べたり飲んだりしている、正しいニューオリンズの家族のパレードの過ごし方という感じであった。「クリスマスは何もしない」と言うW君のお母さんは,パレードの日は張り切ってビーンズからジャンバラヤからローストまで作っていた。食べてパレードに歩いて行く。この気楽さ。
大通りの真ん中の芝生のところに場所が取ってあった。W君のお父さんは朝5時にこの場所を取ったんだそうだ。W君の両親はニューオリンズっ子、壊れたLondon Canalの辺り、Gentily地区出身、10才頃は友達とバスに乗ってフレンチクオーターに遊びに行ったり、ファッツドミノを海水浴場(湖水)で観たりして育ったのだ。
道もCanal St.のようにめちゃくちゃ汚れて混んでいるわけではなく、子供連れにはちょうどいい具合だった。パレード自体は勿論、ニューオリンズの方がいろいろ趣向を凝らしている。高校のブラスバンドも少ないし、踊り子たちも張り合いがないのか、踊らないで歩いてさぼっている。しかし安全だ。
ビーズはおっさんがやたらに集めてしまった。娘はビーズより,時々投げてもらう他のもの、ボールやら何やらに興味がある様子。終わりの方でプラスチックの剣(日月神光剣と書いてある)を勝ち取って満足したもよう。彼女は「ルパン三世」にはまっており、石川五右衛門の真似をするのが好きなのだ。
W君と仲良く6時過ぎまで遊び、7時に帰宅。私はすっかりアレルギーがひどくなった。娘に寝る支度をさせてから空港に向かう。
去年のチャリティコンサートの九州部門の責任者、熊本YMCAのKさんのお迎えである。ダラス辺は大嵐だったようで飛行機は1時間遅れ。おまけに荷物はひとつ前の飛行機のものが沢山積まれてきていて、そのため意図的にであろう、Kさん他25人くらいの人たちのスーツケースは来なかった。おそらく次の便に乗ってくるのだ。その手続きに時間がかかり、宿泊先に送ったのは12時。
ニュースで見たらクオーターの中はあまり混んでいないようだったが、夕方の雨が幸いしてか、私らがずっと住んでいたお宅付近は,嘘のように静かであった。道に落ちてるビーズやビール瓶に名残を残すのみ。今年のマルディグラは人手が少なかったというわけだ。先週の日曜も、雨とはいえ、クオーター内はがらがらであった。
で今日。アレルギーはひどいが、Kさんの恩に報いるためにも、一日運転手を申し出る。「9th wardを」ということであったが、9th wardを観光したくはない。Kさんにそんな意図があるわけではないにせよ、思わずそう思った私であった。
観光でなく、きちんと見せるためにどうしたらいいか。娘の祖母の家に連れていった。ちょうど、うちのおっさんも来たので、家の中まで見せる。
私はハリケーン以来,この一画まで入ったことはなかった。2005年10月、まだ兵隊が見張りをしていて入れなかったのだ。昨日まで出入りしていたところに、赤ちゃんの娘を連れていった所に、彼女が泊まったりした所に、クリスマスは皆で集まった所に、兵隊がいて入れないなんてどうかしている。
しかし「まだ死体が片付いていないので」侵入禁止ということだったのだ。その禁が解かれたのは05年暮れだったが、死体はまだまだ、倒れた冷蔵庫の下から、屋根裏から、車の中から出て来たものだ。
祖母の家は傾いてはいるものの、建っていた。ドライブウェイのピーカンの木もあった。両隣はつぶれてなかった。というより、運河を渡った向こうは取り壊しがどんどん進んだため、やたらにガランとした野原になっていた。家がポツンポツンと。或は家の土台だけが残されて遺跡のように。
ここいらは貧しいスラム街ではなくて、おじいちゃん、ひいじいちゃんが真面目にコツコツ労働して貯金してささやかに建てた家を受け継いできた、という所なのだ。高速道路からは遠くて商業開発はされていなかったのでさびれて見えたが、実は国防軍の基地と運河にはさまれた、機密上、大事な土地なのである。皆が真面目に働いて建てた家を横取りするわけにもいかないので政府は何もできずにいたのだが、ハリケーンで三匹の子豚の話のように、木の家はなぎ倒されてしまった。17th street canalの方はレンガの家が多かったので、中はぐちゃぐちゃでも外見はかろうじて残っていたが木の家は跡形もなく押し流されてしまった。
2007年に入った頃、漸く政府はここいらの家の残骸をかたづけ始めた。去年の写真は ウエブサイトNew Orleans Connectionの方で見られるが、今年も風景は変わっていない。野原が広がっているだけ。しかし流されなかった家の幾つかは自力で立ち直っている。家の土台を持ち上げて、ここに住むぞと言う意気を見せている家もある。
ここいらはどうせ危ない、他に行った方がいいと言われても、ローンの払いが終わっていなければ払い続けなくてはいけないし、他人が敷地内で怪我をしたらいけないから保険も払わなくてはいけない。それで更によその土地を買って新しい家を建てるなんていうのは、普通の庶民には無理なことだ。「貧しいから無理」というわけではないのに、マスコミはそう書き立てる。ハリケーンの被害跡ならまず 9th wardよ、とばかりに観光客がバスに乗って来る。それ以前は訪れたこともない人たちがしたり顔でやって来る。
「大変でしたね」「あの堤防を見なさい、今にも倒れそうですよ」「ここいらは全部住宅街でした」そしてハリケーンを体験した気分になるのだろう。
運河にかかる橋を渡る。子守りが急に来られなくなった時、おっさんに郵便物が来ているという時、祖母の薬を今日中に取って来てくれなどと言われた時、私はこの橋を渡ったものだ。Tricouというインディアンみたいな名前の道のすぐ後、Delery St. ニューオリンズの一番はずれの通り。
「なんか食べましょう」というKさんをベトナムレストランに連れていこうとしたら、旧正月で休みであった。その一画に出来たメキシコレストランに行く。メキシコ移民の、メキシコ労働者のための手軽なお店や屋台が町中にある。油っぽくなくておいしかった。マンゴージュースを飲んだ。
London Canalの辺を通って美術館に行く。London Canalの側も結構ガランとしていた。倒れた堤防の箇所は継ぎはぎで直してある。しかしその際まであった家は、結局,どこまでを更地にするかという基準が出されなかったのだろう、壊したり残したり、持ち主の困惑をそのまま表している。ここをさらに湖まで行くと、本当の大金持ちの豪邸が建ち並ぶ。その辺は水は入らなかった。湖のすぐ側なのに。
シティパークはハリケーンで大きな樫の並木がなくなったので、苗木をずらっと植えてあった。以前のようになるまでには随分かかるだろう。
インディアンアートの特集。アンドリュー・ジャクソンが大統領の時、Indian Removal Actという法律が出来、それはインディアンたちを保護するように見せかけていたが、実は先祖代々の土地からどんどん追い出してよいというお墨付きだった。南部のここいらにいたインディアンたちもそれでやられた。インディアンは遡れば紀元前3700年くらいからアメリカに居たと言う。
土地を追われたインディアンの呪いかなーーー
今日はこの美術館の目玉である、マリー・アントワネットの肖像画がなかった。ゴギャンやドガの絵もなかった。どこかを廻っているんだろう。帰り「ここがドガが住んでた家ですよ〜」などとKさんに見せ、フレンチクオーターのホテルにおろす。
帰宅後、甘いココアを作って飲んだ。アレルギーひどし。